今回は雑記になります。
「BullShitJobs(クソ下らない仕事)」、言葉は乱暴ですがこの世の中にはびこっている仕事の一部を指す言葉です。
私の行っている業務であっても、それは例外ではありません。
<目次>
その仕事は本当に必要なのか?
文化人類学者のDavid Graeber博士は、「We are the 99%(我々は1%の富裕層ではない、99%である)」をスローガンとして掲げ、2011年にウォール街を占拠してアメリカの経済界、政界に対する抗議運動となった、その理論的指導者。
「BullShitJobs(クソ下らない仕事)」とは、そのグレーバー博士が出したエッセイの題名で、世界中で大きな反響を呼んでいます。
内容を少し読んでみましたが、なるほど面白い観点だと思いましたし、おそらく真実を突いているのだとも考えます。
博士の主張は大まかに言いますと、以下のように要約されます。
・世の中の多くの仕事は、「BullShitJobs」つまり無くなっても問題がない仕事なのではないか
・そしてその事は、仕事をしている当人も自覚しているのではないか
・社会への実際の貢献度と報酬が逆相関になっているのではないか
ShitJobsとBullShitJobs
区別しなければならないのは、ShitJobs(イヤな仕事)とBullShitJobs(クソ下らない仕事)です。
(品が良いとは言えない言葉をこれ以上羅列するのも何ですので、それぞれの仕事をSJとBSJと略します)
SJはどんな仕事にもつきまとう、「イヤだけどやらなければならない業務」のこと。
細心の注意を払わなければならない作業やプレッシャーのかかる交渉事など、何がSJかというのは当人の考えや感性にもよると思います。
ですが、SJはイヤではあっても「やらなければならない仕事」、世の中を回すための仕事を指します。
これに対してBSJは「誰もその仕事をやらなくても世界は回る」仕事のことです。
そんな仕事は無い、と思うでしょうか。
しかし実際には、「その会社が無くなっても影響がない」会社はほとんどありませんが、会社の中において「その人の仕事が無くなっても会社に影響がない」仕事は確かにあります。
5つのBSJ
グレーバー博士は、以下の5つの仕事をBSJとして定義しています。
さてどうでしょう。周囲を見回して、この中に思い当たる仕事はどのくらいあるでしょうか。
①Flunkies:権力誇示のために存在する仕事
受付、ドアマン、秘書(カバン持ち)など
②Goons:相手を攻撃、もしくは必要のないものを必要と思わせる仕事
広告代理店、企業弁護士、ロビー活動家など
③Duct Tapers:根本的にダメなものを無理矢理使うためだけに存在する仕事
開発ミスのあるプログラムの修正、設計不良のある製品の手直しなど
④Box Ticking:作業のための作業
結論の出ない会議、社内広報、付加価値を生まない定型作業など
⑤Task Makers:無駄な業務を生み出す仕事
仕事を振るだけの中間管理職、**講師、**アドバイザーなど
実用性だけが重要ではないですが
かつてケインズは、技術の進歩によって人々の働く時間は短くなり、2030年には週15時間も働けば十分になるだろうと予言しました。
まだあと10年ありますが、どうやらその予想は外れそうです。
そしてグレーバー博士は、その予想が外れた理由はブルーカラーの仕事が効率化された一方、それによって浮いた原資をホワイトワーカーとBSJに充てているためだと主張しています。
博士の主張には相当程度納得しますが、そのまま呑み込みはしません。
ブルーカラーが担当する作業だけで世の中が回るわけではなく、そこには必ず監督者と呼ばれる「直接的には付加価値を生まない仕事」をする者が必要だからです。
(ホワイトワーカーが多すぎるという論はまた別の問題として)
それに、こういった論をそのまま呑み込むことは深刻な分断を招き、社会システムにとっても良くない結果となる可能性があります。
世の中の役に立たないBSJや、それで食べているホワイトワーカーを攻撃すれば、相対的に高い地位にある者たちからの反撃を招きかねないからです。
博士の論によれば、社会的地位を持っている人(あるいは高給な人)の仕事がBSJである可能性は相応に高いわけですから。
社会的地位を持つものと持たざるものが争えば、何が起こるかを想像するのはたやすいことです。
結局のところ、それは優越的立場にいる人間の尺度による実用性や生産性で人間を判別する世界を作ることになりかねず、その行き着く先はディストピアに他なりません。
BSJの存在理由
歴史をひもとけば、古代において労働はそもそも奴隷が行うものであり、その次の時代では神から与えられた罰でした。
近世において発想の転換があり、労働それ自体が善であるという考え方となってきたのが歴史です。
(その後は労働意識の世俗化が進み、さらに多様化が進んで現代に至るわけですが)
グレーバー博士の論は、BSJのような無駄な労働は、経済的には意味がなくとも「労働システム」に多くの人間をはめ込むという事に関しては意味があるとのこと。
いわば、労働者階級が余計な事を考えて支配者階級に反旗を翻させないための方策、と主張しています。
そこまで来ると少し言い過ぎな気もしますが、「小人閑居して不善を為す」のことわざの通り、凡人が暇を持て余したらロクでもないことをやってしまうのは、往々にして良くあることです。
労働して報酬を得てそれを使って楽しむ、という活動以上にやりたいことがないのであれば、まずは労働する。できれば自分が好きなように労働するというのも、一つの答えなのかもしれません。
自分を省みる
さて、自分自身を省みてみることにします。
「自分の会社での仕事はBSJか?」という問いには、私は「大半はそうですね」と答えます。
次に、「自分の会社での仕事は社会に貢献しているか?」と問われれば、私は「たいてい違います」と答えます。
でも、それで良いと私は思っています。
私にとって会社での仕事は、「自分会社」の業務の一つに過ぎません。会社での仕事の目的は社会貢献でもやりがいでもなく報酬なのですから、どんな仕事もBSJではなく私にとっては価値のある素晴らしい仕事です。
社会貢献なら仕事を通してではなく、仕事で得たお金を投資に振り向けるなどして実現していけばいいことでしょう。
それこそ下記のような社会的問題を解決するためのインパクト投資に振り向ければ、それは立派な社会貢献活動となります。
グレーバー博士の論は理解しますが、支配者階級ならぬ私には、支配者階級の企みなどあっても存じ上げません。
ただ、既存の仕組みを自分に都合の良いように利用するだけ。だから、BSJ万歳というわけです。