今回は雑記です。
投資の話からは離れて、ツイッターの話と働き方の話になりますので、興味のある方はこのままどうぞ。
簡単に要約すると、「人生初バズりを経験したので、記事を書いてみた」です。
<目次>
人生初バズ
ツイッターはこの新ブログの引っ越しと同時、2019年の12月から始めました。
おかげさまでフォロワーの皆様にも恵まれ、ブログライフと共に楽しいツイッターライフを送ることができています。
そんな中で、良く言われるツイッターの「バズり」。まさか人生初バズりが、このツイートで発生するとは思いませんでした。
【最高裁、アルバイト職員への賞与認めず】
— SALLOW@クラウドファンディング投資家 (@SALLOW_SL) 2020年10月13日
最高裁の立場的には妥当かなー、と思います。
立場が違えば待遇も異なる。それはどこでも同じ事。
問題はアルバイトや非正規に、不相応な責任や業務負担を押しつけていること。
今後はこの部分もメスが入ることに期待です。https://t.co/DLpTXzjFzO
現在進行形で増えてますが、60万弱インプレッションと25,000エンゲージメント、RT+いいねで3,500超えとかツイッターライフ初めての快挙。
私のツイートにおける1ヶ月分のインプレッションを、上記1ツイートで超えた計算になります。
バズった理由と呟いた理由
私はツイッターをブログ更新情報の場としても使っていますが、基本的には楽しむためのものなので、色々なネタを呟いています。
上記のツイート、つまり大阪医科薬科大学の元アルバイトに賞与が支給されなかった件につき、最高裁判断で「不合理とは言えない」判断が出たニュースのツイートも、個人的に少し注目していたから呟いただけです。バズって一番驚いているのは本人です。
ということでバズった、理由は時事ネタであったこともあるでしょうが、ほぼ運や偶然です。
改めてツイッターはすごい、そして怖いなあと思いました。
一方で私が呟いた理由ですが、これは本当に自分の考えそのままです。
アルバイトは賞与が出ない労働契約を交わしているわけであり、後出しで賞与が出ないと訴えたところで、最高裁としては「不合理とまでは言えない」という結論にしかならないと思います。
アルバイトなのに過重な責任を負わされる、ということがあるのなら、それは突っぱねるなり交渉するなり、それでもダメなら別のところに駆け込むなり、単独で解決すべきでしょう。
今回の問題で最高裁は、「賞与は人材の確保・定着のためのもの」、「正規職とアルバイトの間には職務に差がある」、「試験によるアルバイトから契約職員・正職員への登用制度がある」などの理由で、賞与の不支給を不合理とは判断しませんでした。
これについて、私が付け加えるべきことはありません。まあそうなるだろうな、というのが素直な感想です。
同一労働について、思うこと
最近言われている「同一労働同一賃金」について、企業の勤め人の観点から一言。
同一労働同一賃金については、厚生労働省の以下のページに詳しくあります。
上記のページを見れば分かる通り、「同一労働同一賃金」は絶対のルールではなく、労使協議の上で目指すべき姿。つまり現状において、労働市場は「同一労働同一賃金」ではないことを前提にしています。
これは良し悪しの議論や感情論ではなく、ただの事実です。
そして同一労働は、見えている業務内容だけで決まるものではありません。
例えばアルバイトと正社員が共通した仕事を行っていても、それは同一賃金を支給することを意味しません。
例えば、何らかのミスがあった時。
アルバイトが謝っても意味がなく、役職持ちが頭を下げなければ解決しないことなど、世の中にはたくさんあります。この時点ですでに責任範囲が異なっており、同一労働にはなり得ないことになります。
お詫びの最敬礼も土下座も、下げる頭の地位が高いからこそ意味があります。
例えば私が部門に影響のあるレベルのミスをして、下っ端である私が役員に直接謝罪に行っても、「お前が謝罪して何の意味がある? 部門の責任者連れて来い」と、頭さえ下げさせてもらえないでしょう。
(そしてあとで、部門責任者に「なんで私の頭を飛び越して役員のところ行った?(怒)」と、ガン詰めをいただくだけです)
また、見た目上は同じ仕事をやっていたとしても、その人の役職によって売上や利益の数字に対する責任は変わってきます。
例えば小売店のフロアチーフが応援で売り場に立ち接客していても、同じ仕事で同じ結果を残したアルバイトやスタッフと同一の労働をしている、とは言えません。
つまり、同一労働かどうかの判断は下からでは難しく、上になればなるほど容易であるということになります。
こう考えると、次の結論に至ります。
同一労働は、恣意性を逃れられない
同一労働という考え方は、本来は業務に対する報酬の決定において、会社側が恣意的な運用をしないためのものです。
しかしこれまでの例を考えると、「同一労働の恣意的運用は、ほとんどの場合で不可避」という、ある意味残念、ある意味当然の結論になります。
なぜかと言えば上で書いた通り、たまたま同じ仕事をしている二人のスタッフがいたとしても、それだけで同一労働かどうかを決めることはできないからです。
同一労働かどうかの判断は、それぞれのスタッフが行っている全ての業務内容、労働条件、出来映え(業務評価)を俯瞰的に捉える、という視点が必要です。
そしてその視点は多くの場合、会社側に立つ管理職しか持ち得ません。
管理職の判断に会社の意向が入らないはずもなく、つまり、同一労働の判断にはほとんどの場合、恣意性が混入してしまいます。
それに異を唱えるならしかるべきところに訴えるしかありませんが、会社側が業務情報を握っている以上、多少強引な後付けであっても、二人のスタッフを区別する要因を探し出し、付与してしまうでしょう。
結果として訴えたところで、たいていの場合は芳しくない結果に終わる、ということになると思われます。
例外は、二人のスタッフの業務内容、労働条件、出来映え(業務評価)が、誰が見ても同じである客観的な証拠があり、かつ報酬が異なる場合のみ。
ただそんな場合は数少なく、ですからやはり同一労働という概念は恣意的に運用されてしまう、と考えるわけです。
これは同一労働の制度の欠陥というより、日本のようなメンバーシップ型雇用との相性の問題でしょう。
過重責任は問題ですが、動かなければ...
一方で、一部の業種あるいは職場において、アルバイトに不相応な責任を負わせる事例があるのも事実であり、許されるものではありません。
ただこれも、黙っていれば誰かが助けてくれるという性質のものではなく、労働者が声を上げなければ問題は動きません。
そのために個人でも入れるユニオンは日本中にありますし、声を上げる労働者が増えれば企業も動かざるをえないでしょう。コンビニチェーンのフランチャイズ問題も、そういった現場の声から始まりました。
労働問題を社会の責任、政府の責任と考える人もいますが、それでは何も解決しません。
例えばアルバイトへの過重責任を防止すべく、アルバイトの責任を限定するガイドラインを出すにしても、職種が膨大かつ変化が激しくて現実的ではありません。
「アルバイトの労働は単純労働に限る」と決めようとしても、今度は単純労働とは? という定義が問題になります。
例えば、かつて塾講師を経験したことのある私に言わせれば、授業は肉体労働であり、テスト採点のほとんどは単純労働です。
しかし、そう思わない人も多いでしょう。このように単純労働一つとっても一般的には定義が難しく、ましてや全業種を網羅するようなガイドラインを作るのは、現実的には不可能だということです。
立脚するのは、現実か理想か?
結局こういった労働問題は、労働者一人一人が労働契約、関連法令等を理解し、自分の身は自分で守るという意識によってしか解決しないと思います。
もしかしたら誰かが手を差し伸べてくれるかもしれませんが、まずは他人に頼らず、自分で自分を助けるのが筋というものでしょう。天は自ら助くる者を助く、というものです。
ツイートで始まった話題なので、最後もツイートで終わりたいと思います。
現実に立脚して、不完全で不公平なことを認め、他者には期待せず、自分の周りを少しでも良くしようとする人。
— SALLOW@クラウドファンディング投資家 (@SALLOW_SL) 2020年10月14日
理想に立脚して、理想の実現を当然と捉え、不都合な現実との間の乖離を社会や政治に押しつける人。
どちらが生産的かは言うまでもなく。
以上、今回のバズりで言語化できた内容でした。
働き方に限らず、投資でも普通の生活でも何でも同じですが、現実はそもそも不完全で不公平なものです。
それでも、そこに立脚しなければ何も始まりません。
現実と理想のどちらに立脚するかはその人の自由ですが、少なくとも私は前者ですし、前者であり続けたいと思っています。
私の狭い認知範囲での話ですが、自立し己の人生を楽しんで生きている人は、一人の例外もなく前者の思考法をしているからです。