先日、「FIしたので考える:お金っていったいなに?」という記事を書きました。
今回はその続編、あるいは対になる記事となります。
<目次>
仕事に普遍的な価値はあるのか?
先日の記事ではまず、お金の普遍的な価値について書きました。
その時の結論は、お金とは「物の取引を物々交換から一つ上のステージへ上げるために必要なツール」であり、「幅広く多くのものと交換が可能」であることが普遍的な価値だ、というものでした。
では、仕事に普遍的な価値はあるのか。私はあると考えます。
現代において人が生きるためにはお金が必要であり、仕事の普遍的な価値は「時間と労働力をお金に変換する行為」だというのが、私の意見です。
もちろん、人によってはそれ以上の価値を持つ人もいるでしょう。マズローの欲求五段階説と、仕事に対する「それ以上の価値」は、良い対比になります。
しかし、それら後付けの価値を剥ぎ取った仕事の価値はあくまでも「交換」であり、酸素と二酸化炭素を交換する呼吸と優劣を比べるものではないと思います。
(*仕事を貶めているわけではありませんので、念のため)
仕事における承認欲求
先ほど話題に出したマズローの欲求五段階説、その四段階目には「承認の欲求」があります。
この承認欲求には低位と高位があり、低位のものは「他人に認められたい、注目され賞賛を受けたい」というもの、高位のものは「自立性を得たい、自分自身に認められたい」というものです。
仕事の普遍的な価値は「交換」だという考えに立てば、どんな仕事も普遍的な部分では等価値です。
たまたま本人の能力、適性、あるいは偶然によってその仕事に就いているのですから、その仕事に就いているから偉いとか立派とかいうのは、外部が評価するのはともかく、当人が自慢するようなものではありません。
とは言え人に承認欲求がある以上、良い仕事・高収入の仕事を認められたいという欲求は自然なこと。
なので承認欲求を自覚し、増長しないように自分をコントロールできるかが重要になってくると思います。
仕事も投資も同じこと
仕事の普遍的な価値を考えると、「何かとお金を交換する」という行為は本質的に等価ということになります。
例えば投資も、仕事との間に優劣はありません。「投資をしているから偉い」ということがないように、「仕事をしているから偉い」ということもないわけです。
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ですから、時々見かける「FIREした後で、会社員の仕事や在籍していた会社を悪し様に言う」という言説には、私は賛同できません。
(在籍中に、所属している会社の愚痴や文句を言うのは一定程度しかたないと思いますが)
理由は、まず自分がFIREできた資金の出所がその会社である以上、会社を悪し様に言うのは忘恩だということ。
そして、会社で働いている人を社畜呼ばわりするのなら、FIREしたその人は「元社畜、今は社畜ですらないナニカ(むろん人間でもないナニカ)」であることを認めなければならないからです。
視点を広げてみると
もう少し視点を広げてみます。
FIREのはしりとなったベストセラー本「Your Money or Your Life」の大前提は、「自分の人生の時間(寿命)に対して、仕事で費やされた費用と時間を並置(=対等に)すること」。
この前提に立てば、投資と仕事が等価であるように、あらゆる「資金を得る活動」は法に触れない範囲において等価です。
例えば、「投資で稼いでいることを情報発信している人は、実際は投資ではなく情報で稼いでいるだけ」という言葉を時々聞きます。
しかし投資と仕事が等価である以上、上記の文章が正しいのなら、「投資」は「仕事」に置き換えても正しくなければなりません。
つまり投資の情報は、自己啓発やTOEICなどの情報と同じ価値という結論になり、発信する情報の正確性に優劣はあれ、発信する情報カテゴリそのものには優劣はないことになります。
もちろん個人としての好悪はあるでしょうが、優劣とは関係がありません。
まとめ:仕事っていったいなに?
ここまで書いてきて、「仕事っていったいなに?」と考えると、結局は単純な内容になりました。
現代社会で生きていくためにはお金が必要ですが、お金を手に入れる方法は何も会社の給与だけではなく、副業や投資、節約を組み合わせるべきでしょうし、なんなら起業してもいいわけです。
どんな選択肢を選んだとしても、やりがいや意義を見出すのは個人の勝手(自由)であり、本質的にはリスクとリターンしかありません。
突き詰めて考えると仕事というのは、他の趣味の活動と同様に「その人が(積極的にせよ消極的にせよ)やりたくてやってる自由行動」ということになるのだと思います。