ツイッターは様々な課題もありますが、様々な気付きを与えてくれる場所でもあります。
今回はそんな気付きの一つ。FIREやセミリタイアをどう捉えるべきか、そしてどうあるべきかについての話題です。
<目次>
「あがり」に非ず
「FIREは『あがり』に非ず」
これが今回、ツイッターを介して得た気付きのもっとも重要な部分だと思います。
正確に言えばFI(経済的自立)とRE(早期退職)はベツモノだと思うのですが、そうだとしてもFIREすることを「達成」「ゴール」などと言われるように、FIREというのは双六で言うところの「あがり」として捉えられることが多いと思います。
FIREや(セミ)リタイアを「あがり」として捉えることは間違ってはいませんが、それは達成するまでのこと。
達成した後は異なるステージに移行することになるのですから、視座が違うことでモノの見え方が変わるのも当たり前のことだと思います。
この社会にはどこにでも競争が存在し、それは労働者ステージのみならず管理職や役員ステージ、なんなら社長としてのステージでも同じこと。マス層にはマス層の、富裕層には富裕層の競争が存在します。
ですから選択肢としてはずっと走り続けるのか、それともどこかで(一時的にしろ)降りるのかの二択しかありません。
その「降りる」行為がFIREなり(セミ)リタイアなのですから、FIREや(セミ)リタイアは「あがり」ではなく「降りる」行為と言った方がしっくりくる(*)というのが気付きのコア部分となります。
*Resign(投了)ではなく、勝ち負けの土俵そのものから降りる行為
この上がる・降りるの関係は、記事の後でも出てきます。
「仕事」に非ず
*以降、FIREや(セミ)リタイアについては「FIRE」とまとめて表現します。
FIREについて時々、仕事を辞めた人間が何か新しいことを始めた時に「それはFIREじゃない」とか「ただの転職じゃないか」などと言われることがあります。
ではFIRE後に何かを行って報酬を得たら、それは仕事なのか?
これについて私の考えは「条件による」です。
まず仕事には「生計を立てるために従事する職業」という定義がある以上、その報酬がなければ生活が立ちゆかない場合は仕事ですし、そもそもFIRE(FI)ではありません。
またその作業を行い報酬を得る行為が、社会人生活の頃と同様に他者との競争になる場合も、FIREには「競争から降りる」という側面がある以上FIREではなく仕事に数えられるでしょう。
逆に言えば、その報酬がなくとも生活が立ちゆき、かつ誰かと競う必要のないところで気ままに作業をしている場合、例え作業で報酬を得ていたとしても「仕事」ではないと考えます。
自分に立ち戻って考えれば、私の投資は誰かと競う性質のものではありません(*)し、ブログやその他の活動も他人と競ってるわけではありません。
*サーバレースはありますが、投資できなくとも「しゃーない次行こう次」で終わりになる以上、競争とは呼べません。
私がやってることはクラウドファンディング投資のわずかながらの助けを行い、その一方で報酬を受けるという実益を伴った趣味なわけです。
趣味だからといって、むしろ趣味だからこそ手は抜きませんが、これは決して「仕事」ではありません。
誰が為のFIRE?
FIREに向けて邁進している時は良いのですが、そのテープが近づいてきた、あるいは実際にFIREした後には考えなければならないことが二つあると思います。
一つは「誰が為のFIREなのか?」
自分が誰のためにFIREしたかと言えば、それは徹頭徹尾自分(+家族や親族も含む)のためであり、ある意味で言えば自分の勝手な行動でしかありません。
「FIREしたことはただの自分の勝手な行動であり、その結果は自分だけが引き受ける」ということは、常に心に刻んでおくべきと思っています。
労働は突き詰めて言えば時間と労力をお金に変換する仕組みであり、そこに追加でどんな意義を見出すかはその人次第。だからこそ仕事を続けるも辞めるも等価だと考えます。
もう一つ重要なことですが、FIREするに至った資産の出所を考えれば、それは報酬を払ってくれた会社あるいは世の中の経済活動から生まれています。
それなら会社には感謝すべきでしょうし、経済活動を支えていただいている人々にも感謝すべきでしょう。自分が仕事から降りたからと言って不平不満や文句を言うなら、精神的にはFIREしていないどころか「小人閑居して不善を為す」の代表例として恥を晒しているだけのことです。
誰が故のFIRE?
FIREが近づいたら、あるいはFIREしたら考えなければならないこと、その2。
先ほどは「FIREした目的」でしたが、今度は「FIREした後の目的」についてです。
FIREしたのは自分の勝手であり自分だけの結果ですが、決して自分だけの力ではありません。
なので、その分の恩は返すべきだと考えます。
ただ実際に恩を返そうとしても、会社を辞めた以上会社に恩を返す方法は少なく、過去に恩を受けた人の中にはすでに恩返しができない人もいるでしょう。
ですから私は恩を返すというよりも、自分で選んだ誰かに恩を渡そうと考えています。
それは結局、情けは人のためならずにも繋がってくるでしょう。
この世にお金で買えないものはもちろんありますが、世の中の面倒事の9割はお金があれば回避することができます。
そして誰かに便宜を図ることと同様、誰かの面倒を回避することも恩の一種だとするのなら、恩義ポイントは値札の付いた売り物だという解釈もできます。それなら資産の一部を恩義ポイントに変えるのもアリでしょう。
余裕のある資産で何をするかを選べる、そんな自由な選択肢がFIREの本質の一つではないかと思います。
まとめ
以上、FIREや(セミ)リタイアについて思うところをつらつらと書いてみました。
ざっくりまとめると、以下の3点になります。
①FIREはただの結果であり偉いわけじゃない。成し遂げた満足は自分と近い人だけで分け合えばいい。
②FIREの後は不平不満を言わず競争することもなく、のんびりまったりやっていきましょう。
③余裕のある資産を使って誰かに恩を渡せれば、それに越したことはないですね。
FIREしてまで攻撃的になったり不平不満ばかりを言ったり、そんな態度ならFIREする意味も資格も行方不明というもの。
せっかく選択肢を多く手に入れたのですから、余裕をもって贅沢に楽しんでいきたいものです。