政策や選挙ネタになると良く「忖度」という言葉が使われますが、今回はこの言葉を取り上げて雑記を書いてみます。
とは言え当ブログはあくまでも投資ブログで、政治や選挙について語るつもりはありません。あと黒ウサギ注意です。
<目次>
レッテルを貼られた言葉たち
まずそもそもの話ですが、「忖度」は(主にマスコミに)レッテルを貼られた言葉の一つです。
本来は悪い意味を含まないのに悪い意味に使われたり、本来は良い意味を含まないのに良い意味に使われる。そういう言葉をここでは「レッテルを貼られた言葉」と呼ぶことにします。
前者は例えば「姑息」。意味は「一時しのぎ、短期的な解決策、暫定対策」であり、「卑怯」という意味は存在しません。
後者は例えば「こだわり」。とことん追求するという意味もありますが、同時に「どうでもいいことに執着する・拘泥する」「難癖をつける」という意味もあります。
忖度もこのような言葉の一種であり、意味は「他人の心を推し量り、相手に配慮すること」。決して悪い意味ではなく、それどころか相手を慮るという意味では褒め言葉です。
逆に「忖度をしない」という言葉は「相手に配慮しない、慮らない」という意味なので、良い意味どころか貶し言葉でしょう。
現在間違えた意味で使われている「忖度」は本来、「しがらみ」と言い換えるべきです。こちらなら意味は「引き留め、まとわりつき行動の邪魔をするもの」なので、悪い意味に使っても問題ありません。
言葉の意味は不変ではないので、時代により言葉の使い方が変わっていくのはある意味当然ですが、本来の意味を知っていて「今はこういう意味もある」と考えるのと、本来の意味を知らずにただ使う事の間には大きな溝があります。
この溝はある意味で、教養の違いではないかと思うわけです。もちろん私も修行中ですが。
社会で生きるということ
人間は社会的な生き物ですから、それぞれの立場において役目が異なり、また周囲の人と様々な関係性を持ちながら立場としての目的をこなしていくものです。
人や社会との関係性を持つということは、人や社会から影響を受けるということでもあり、恩恵を受けるということでもあり、したがって利害関係があり配慮の必要が生じるということを意味します。
つまり人間が社会の中で生きていく限り、忖度からもしがらみからも逃れることはできません。それらから自由になろうとすることは自由ですが、それも結局のところ「自由になる」というしがらみに囚われているに過ぎません。
AIですら、どんなデータを食べどんな教育を受けたかによって忖度のようなものを自然と身につけます。なおのこと社会にどっぷり浸っている人間が忖度やしがらみから自由になるのは不可能と言っていいでしょう。
忖度にしてもしがらみにしても、あえて声高に否定する必要はどこにもありません。それらは社会にも人生にも付いて回る影法師のようなものですから、影法師に良いだの悪いだの言ってもしかたないでしょう。
忖度と広告
さて、ここからは投資ブログらしいことも少し書いてみます。
実際に忖度やしがらみから自由になるのは不可能だとしても、そのような行動を模倣(ロールプレイ)することは可能です。
ただその場合、自分自身は完全にニュートラルでなければなりません。
ニュートラルとは良いものを良いということもできず、悪いものを悪いということもできないことを意味します。なぜなら「良い」も「悪い」も私情であり、私情を挟んだ時点で忖度やしがらみに囚われてるに等しいからです。
つまり忖度やしがらみから自由になろうとすれば、数値データなどの事実関係を感情なく述べることしかできません。ただしクラファンで言えば、数値データだけを表記するなら公式サイトで事足りるわけですから、事実関係だけを書く情報サイトにどれだけの価値があるのかは微妙なところですけど。
ブログ等のメディアで忖度やしがらみから自由になり、かつ私情を挟んだコンテンツを作成できるもう一つの手段があります。
簡単なことです。一切の広告を排除すればいいだけです。
関係者(この場合はクラウドファンディング事業者)と一切の利害関係を否定すれば、好き勝手になんでも言えます。逆説的に言えば、広告を掲載するということは忖度やしがらみがあると宣言していることになります。
翻って自分の場合
他の事ばかり書いてオマエはどうなんだよ、という言葉も聞こえてきそうなので、ここで自分の場合を紹介します。
私は忖度もしがらみも、なんなら既得権益もポジショントークも否定しません。これらは「あることが悪い」のではなく、「問題無い忖度などと、質の悪い忖度などがあるだけ」と考えています。
ことクラファンに関して私は、十数年前の黎明期から数々の失敗を繰り返しつつ今でも投資を続けているほど気に入っている投資手法であり、それゆえクラファン好きを公言しブログなどのメディアで情報発信を行っています。
結果としてクラファンに関係していくつかのお仕事もいただいてますし、クラファンの中の人やASP・広告代理店の中の人とも繋がりがあったり、クラウドファンディング事業者のいくつかとはNDA(機密保持契約)すら締結しています。
なぜそこまでするかというと、まず前提はクラウドファンディングはインサイダーの対象外だということ。NDAを結んだところでクリティカルな情報は手に入りませんから、私がある程度の内部情報を得て投資を行ったところで法には抵触しません。
さらにNDAによる内部情報を、そのものずばりは無理ですがメディアでほのめかすことにより、それを見た読者の方々の参考になりメディアとしての信頼性が上がるという側面もあります。
クラウドファンディングで同じファンドに投資した人は知識・経験に関わらず同じだけのリターンを得ることができるという特性があるため、私が事業者とバリバリ忖度をしてNDAも締結して得た情報を流すことは、回り回って投資家の利益に通じると考えています。
ポジションを持たないということ
最後にまとめとして、忖度と似た意味を持つ「ポジション」、そして「ポジショントーク」について良く誤解されていることを紹介します。ポジショントークとは悪い意味で使われがちですが、それは本当のことでしょうか?
社会や組織の中で一定の立場になれば、自動的に忖度を身につけ自分なりのポジションを獲得し、それに沿った言動を行うものです。自分が獲得したポジションが適切だと信じているなら必ず自分もそのポジションにいますし、立場に沿ったポジショントークを行うのがあたりまえです。
つまり、ポジショントークは自分が真実そのポジションにいる限りにおいて、本気で取り組んでいる証です。
悪いポジショントークは自分のポジションを隠して行う、いわゆるステマと呼ばれる行為であり、ここは明確に区別されるべきでしょう。
大人にもなって主張すべきポジションがないというのは、物事に本気で取り組んでいないか、あるいは自分の役割において役立たずかのどちらかです。
現代においては一定のポジションを取らず、その場の状況や空気でなんとなく刺激的な発言をするというのがimp稼ぎの常道です。そのような行動は。自分でがっつりポジションを取ってポリシーに則った言動を行うよりもよほど簡単ですし、実際にそういった行動を取る人は一定数見受けられます。
自分のポジションを公開せず、それでいて客観的な発言や本音を装う人間には十分な注意が必要でしょう。それは政治でも、健康に関することでも、投資に関することでも同じです。
浜の真砂は尽きるとも、世に悪人の種は尽きまじ。騙す方が悪いからと言って、騙された結果は自分自身が引き受けるしかありません。騙すような人間が、騙された人間の被害回復をやるわけないんですから。
ちなワイ、人を騙し誘導した経験は会社員時代にずいぶん積んでる。でももうやりません。面倒だから。