X(Twitter)上で、「逃げてもいいんだよ、という言葉が流行った結果」という内容を見かけました。
今回はその内容から、私なりに考えたことについて雑記にしてみます。いつもの通り、黒ウサギモード入りますのでご了承のほどを。
<目次>
逃げてもいいのは当然のこと、だけど。
今回X(Twitter)で目にしたのは、以下のような内容でした。
「逃げてもいいんだよ、という言葉が流行って、つらいことから逃げた。
そうしたら、行き止まりに行き着いてしまった」
「逃げてもいいよと言った人は、誰も責任をとってくれなかった」
私の性格をご存じの方は、こういう物言いをする人を目の前にしたらどんな反応をするか分かると思いますが、まあ要するに甘えんな。
逃げることは人としての権利であり、その選択肢を行使するのは自由。
「逃げてもいいよ」と言った人はただ、その権利や自由について言及しただけ。逃げた後に何をどうしてどこへたどり着くのか、それを考えて実行するのは本人だけが持つ権限です。
後者の「誰も責任を取ってくれなかった」に至っては、他責思考ど真ん中のBullShit(一応英語でぼかす)な考えにすぎません。
他者が助言の責任を取ってくれるという妄想が許されるのは、いいところ年齢一桁くらいまでです。
なにせそもそも、助言そのものに価値はありません。助言を受けた自分が(助言に従うか否かに関わらず)何かを為して、初めて価値となります。つまり助言とは相手から与えられる価値ではなく、自分が生み出す価値なのですから、誰の責任も追及しようがないわけです。
そうは言っても、やっぱり逃げていい。
世の中には様々な理不尽やら辛いことやらがあり、それらすべてを受け止められるほど強い人はほんの一握り。私ももちろん一握りの外の人間です。
なので、やっぱり逃げていいんです。ただ「逃げてもいいけど結果は自分で背負え」というだけのこと。
そしてここで言う「結果」というのは、逃げたことに起因するかどうかに関わらず、もっと言えば自分に責任があるかどうかに関わらず、自分に起きた全てのことについての結果です。
私が時々「自己責任なんてまだまだ優しい言葉」と口にするのは、こういう考えから来ています。自己責任とはしょせん、自分に責任があることだけ対処すればいいだけなので。
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言葉遊びかもしれませんが、逃げるということは「逃げないという選択肢を選ばなかった」ことであり、本質的には逃げるも進むもそこまでの違いはありません。
ただ逃げると進むでは結果や手に入るものが異なり、だいたいの場合は逃げるよりも進んだ方が良いアイテムが手に入りやすい傾向があります。
他方で逃げるよりも進んだ方が心や体の消耗が激しい傾向がありますので、バランスを取って選択肢を進めて行く必要があるという当たり前の結論に至るわけです。
まあ要するに「逃げたら一つ、進めば二つ」ってことですよね。
頑張らなくても、もちろんいい。
「逃げたっていい」と同種のものとして、「頑張らなくてもいい、行動するだけでいい」という言葉を見かけることもあります。
私はこの言葉は適切だと思います。ただしその後に「その分のリターンしか入らないと納得するなら」を付けますが。
これは私自身も例外ではありません。もう少し会社で頑張れば(*)さらに上の待遇は用意されていたでしょうし、退職した後でも様々に頑張ればよりリターンが大きくなったでしょう。
*ここで言う頑張りや努力は、適切なものであり結果が出るものに限ります。
そういった行動を選ばなかったのは自分であり、だからこその今のリターンに納得しています。
頑張った/頑張らなかった結果として受け取る果実が多くても少なくても、それはその人の自由。そしてブッダの言葉を借りれば「あなたはあなたの思うようになっている」のですから、受け取る果実が少ないのも自分が望んだ姿であり、その境遇に不満を言うなんてもってのほか。むしろなりたい自分になれたのを喜ぶべきでしょう。
それでもリタイアしたオッサンから一言だけ言わせてもらえば、過去の頑張りが現在のリターンをもたらすと考えれば若いうちに無茶はしておくべきです。それは会社のためではなく、自分のためにです。
人間は若いうちなら食って寝れば治ることが多いですが、ある程度の歳で無茶をするとふつーに逝きます。
(会社員時代に数名見てきました)
つまり一定以上の年齢を経てしまうと、リターンが期待より少なかった場合のリカバリーが難しくなるからです。
まとめ
人間はそれぞれ体格や性格が異なり、特性や能力も異なります。
そして当然のことですが、人間の能力はそもそも不平等で不公平なのが当然です。
この不平等あるいは不公平を社会的に修正する方法は、色々と提唱されていますが今のところそこまで効果的なものはないと思います(ポル=ポトの愚民政策まで入れるのはアレですし)。
むしろ日本においては、不平等や不公平は他の国よりだいぶマシかもしれません。
それでも現在の社会と自分の生き方の結果に耐えられない人は、確かに一定数います。そういう人は壊れる覚悟で自分を鍛えるか、来世に期待するかのどちらかでしょう。そしてそれも、自分で引き受けるべき結果です。
「誰もが果実を手に入れられるわけじゃない」というのが、世の中の前提だからです。
能力に不平等不公平が存在する以上、リターンに不平等不公平が存在するのも当然。そう弁えて自分に起こる全ての結果を引き受け、まあなんとかうまい具合にやっていくしかないというのが、この雑記のありきたりなまとめとなります。