今回は「投資」と「投機」とは何が違うのか、についての雑記です。
それぞれの言葉の定義から始めて、現状における妥当な境界線や考え方について、私なりに書いていきたいと思います。
<目次>
「投資」という言葉の、二つの意味
最初は、「投資」「投機」の定義から始めます。
投資(investment):将来の収益増加の期待から生産能力を増加させること。また広義には収益を期待して資金を支出すること
投機(speculation):ある「財」を価格の低いときに購入し,価格が上昇したところで売却して,その価格差から利益を得ようとする行為
(出典:ブリタニカ国際大百科事典。一部抜粋)
こう見ると、資産には広義と狭義があることが分かります。
広義では、「収益を期待して出資を行うこと」は全て投資ですが、狭義では「将来の収益増加の期待」から出資することが必要であり、将来と言う言葉から必然的に長期にわたって出資することが前提となります。
そして投機は安い時に買い、高いときに売って利益を得る行為。つまりキャピタルゲインを目的とした投資は、狭義では実のところ投機だということになります。
この定義で言うと、キャピタルゲインがなくインカムゲインしかないクラウドファンディングは、投機よりも投資寄りだと分かります。
しかしクラウドファンディングの中でも、特に融資型(ソーシャルレンディング)がやっていることは、基本的には金貸しです。
金貸しは投資とはかけ離れた概念に思えますが、いったいこの乖離はどこから来るのでしょうか。
投資と投機の境界線
先の問いに私なりの回答を出しますと、それは
「広義における投資は投機を含むのに、狭義における投資と投機は対立関係に近いから」
となります。
クラウドファンディングを例に挙げれば、この商品は「収益を期待して出資すること」なので広義における投資ですが、「長期的」な観点ではないため、狭義における投資ではないということになります。
ある人やある文章が「投資」と言った/書いた場合、それは広義における投資を指すのか、それとも狭義における投資を指しているのか。
それによって、意味はかなり変わります。
投資と投機を考える上では、投資という言葉が取り得る解釈の幅と、それによって生み出される両者の関係性の違いを理解しておく必要がありそうです。
投資と投機の境界線は、このようにかなり曖昧なものです。
そして境界線が曖昧な概念は、1/0のデジタル思考や決めつけ思考などと結びつき、人を誤認させることになります。
投資と投機の二元論で語ること自体、(意図的でなければ)視野の狭い行為だと言えるのかもしれません。
では「資産」とは?
次に、投資と切っても切れない重要ワード、「資産」についても定義を見てみます。
資産(asset):有形・無形の財産に関する会計上の概念。企業によって所有され,短期および長期にわたって営業目的に経済的に貢献する一定の金銭的価値をもつ財貨・権利
(出典:百科事典マイペディア。一部抜粋)
私が実践している自分会社の考えからすれば、企業も個人もそれほど変わりません。
(参考:自分会社という考え方について)
www.sallowsl.com
企業の話を個人に落とし込めば、資産というのは単なるお金や商品ではなく、有形無形構わず「自分に利益をもたらすもの」でなければいけません。
このあたりはロバート・キヨサキ氏の名著、「金持ち父さん、貧乏父さん」でも書かれている通り、
私のポケットにお金を入れてくれるもの=資産
私のポケットからお金をとっていくもの=負債
というわけです。
二元論を捨てる
もう一つ引用します。
投資と投機が対立関係ではなく、どちらかと言えば包摂関係にあるということを説明したものとして、下記の言葉が的を射ていると思います。
有価証券に「投資」をするという意味に於いて一般的な見解によると、利子や配当などのインカムゲインの取得を目的とした資金や資本を投下する行為を言う。ただしこの概念はあくまでも抽象的なものであり、実際には「投機」との区別を明確にすることができないことが多い。
(出典:株式公開用語辞典)
それに、もしも投資と投機が対立関係で使われていたとしても、一人の人間がそのどちらかに付かなければならないということはありません。
人の考えなど変わるものですし、堅実な投資(狭義)を行っている人が、たまのアクセントに投機を行うこともあるでしょう。
投資以外の手段を含め、どんな手段をとるにしてもその人の資産が増えるなら成功であり、資産を減らしてしまったならそれは次への糧なわけです。そして資産構築はどこまで行っても自分事であり、他者と競う性質のものではありません。
投資と投機を切り分けること、それ自体が二元論の兆しです。
そして二元論による単純思考は、「それを捨てることで、人生がより良くなった」と私が考える思考の一つでもあります。
まとめ:投資家としての価値
投資と投機の境界線があるわけではなく、ただ膨大なグレーゾーンがあるだけというのが私の考えです。
「結局は人それぞれ」などと結論してしまえば元も子もありませんが、そこに至るまでの思考を記事にしてみました。
良く見かける投資と投機の判断基準に、「プラスサムかゼロサム(マイナスサム)か」というものがあります。
これは確かに説得力のある判断基準ですが、しかし大事な観点が抜けています。投資が人によって行われる以上、人の嗜好の違いを無視する一般論は意味がない、というものです。
以前話題になりましたが、競馬予想ソフトに改良を加えて年間数億円以上の馬券を買い続け、毎年回収率が100%を超えていた会社員がいました。
彼にとっては、本来マイナスサムの競馬も投資だったわけです。
ゼロサム(マイナスサム)のFXも、後ろ盾が脆弱な暗号通貨(草コイン)も、投資と思う人にとっては投資でしょう。
単にゼロサム・マイナスサムというだけで否定する理由にはなりませんし、一般論として語ってもそれが特定の誰かに当てはまる保証はありません。それを全体に適用するのは、いわゆる「主語が大きい」案件です。
もちろん、ゼロサムやマイナスサムの商品は不利なことはまちがいありません。
しかし、そういった商品でもプラスになるよう手が打てないかと考えるのが、投資として一歩進んだあり方だと思うわけです。