ソーシャルレンディング投資記録(新)

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人生をより良いものにした考え方(私の場合)



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今回は雑記です。

今から思えば、「こういう考え方をしたから人生が改善したのでは?」という考え方がいくつかありますので、紹介したいと思います。
万人に共通するものではありません。あくまでも私の考え、私の意見です。よければ参考にして下さい。


<目次>

 
 

1/0で考えないこと


 


一つ目は、「1/0で考えないこと」。

1/0とはイチゼロ、つまりデジタル式の両極端。
有るか無しか、良いか悪いか、正か邪か、という二元論で考えないことです。


人の世にある物事、特に対人関係における物事はたいていの場合、白黒付けられるようなものではなく、その間の膨大なグレーゾーンのどこかに着地するものです。
また、ある人にとっての良い事が、別の人にとっての悪い事だった、などという例は枚挙にいとまがありません。


ですから、世の中における「AかBか、どちらの意見が正しいか?」という問いは、基本的には無意味です。
「どちらが論理的か?」という問いなら意味がありますが、それもお互いの視座や立場が違えば組み立てられる論理も異なり、「それぞれが論理的である」という例も出てくるでしょう。


1/0のデジタル思考は、ものづくり現場における良否判定が悪い意味で拡大してしまった結果だと思うのですが、人間は感情的になると、簡単にこの単純化された思考に落ちてしまうのは、気をつけなければならないことだと思います。


禅語で言うところの「両忘」。
その境地まではなかなかたどり着けませんが、叶うならば近づきたいものです。
 
 

ごちゃ混ぜにしないこと


もう一つ、問題をごちゃ混ぜにしないこと。

問題は可能な限り分割し、単位で考えることにしています。


しょせん誰しも一人の人間、持っている視座の広さには限りがありますから、問題の全容を全容のまま(つまり集合体で)捉えることは難しいもの。
なので可能な限り問題を分割し、個別に考えていくことが重要だと思います。


例として、以前ツイッターでバズった、非正規雇用への賞与支給の最高裁判決の話題を挙げます。


www.sallowsl.com


「賞与が支給されるか否か」と、「非正規なのに過重責任があるか否か」の問題は、個別で取り扱うべきだと考えます。
これをごちゃ混ぜにし、さらに先に書いた1/0思考が混入すると、もはや問題の本質ははるか彼方へ飛んでいってしまい、後に残るのは、不毛で非生産的な感情論だけです。

非正規であり、賞与が支給されない労働契約を締結している以上、賞与が支給されないのは当然。
非正規の立場に釣り合わない過重責任があるならば、それは別途解決すべき問題でしょう。
 
 

論理思考とOODAは大事


 


次に、論理思考とOODA。

詳細については私が説明するまでもなく、世には良著があふれていますのでそちらを参考にして下さい。


論理思考(ロジカル・シンキング)と、OODA(Observe:観察する、Orient:方向付けする、Decide:決定する、Act:行動する、の頭文字)は、思考を磨き行動に移すための一般的・普遍的武器です。
(これに加えて、意志決定としてはPrOACT法も有効と考えます)


付け加えるなら、私が大事にしていることは、「思考と感情を切り離す、だけどどちらも尊重すること」です。

ロジカル・シンキング、PrOACT、OODAのいずれにおいても、感情の混入はロクな結果を生みません。
しかしだからと言って、感情を疎かにしていては人間、いつかは潰れます。


ですから私の場合、「思考が正しければ、行動は正しくなくてもいい」と自分を甘やかしています。

適切な論理の上で適切に思考した結論を、「でも私は嫌」で放り投げてもいいじゃないですか。にんげんだもの
(無論、その行動をすることのデメリットも適切に理解し、自責として受け止めることは前提ですが)
 
 

比較しないこと


これは良く言われますね。比較しないこと。

どうせ世の中、上を見ようが下を見ようが限りはありません。
誰かと自分を比べても、誰かになれないのなら詮無きこと。むしろ理由なく「あの人のようになれる」などと思い込むことは、毒にしかなりません。


そうは言っても、どうしても比較してしまうのは人の性。
そういう時にはその人の成果ではなく、その人の行動や思考、考え方といったものを自分と比較し、何か糧になるものがないかと考えるのはいかがでしょうか。

人から物を奪うのは犯罪行為ですが、行動や思考、考え方を糧にするのはまったく問題ありません。
どうせ誰かと自分を比べても、誰かにはなれないのですから、少しでも自分の糧にすることが大事だと思います。
 
 

批難しないこと


 


批難しないこと。まあこれは当然です。

改善を意図して、当然の礼儀を守って提示される「意見」以外、全ては誹謗中傷と言っても過言ではありません。


どうせ他人は変えられません。変えられるなどと思うのはただの傲慢です。

つまるところ批難とは、自分自身の傲慢が生み出したものか、あるいは自分は道理も分からず喚き散らす赤子だと自己紹介しているか、そのどちらかに過ぎません。


一言二言、心のデトックスに愚痴を言うのは構いませんが、どうせ他人を変えられないのなら自分に注力するのが道理というものでしょう。

批難するくらいなら行動、考え方を一つでも糧にする。その方がよほど生産的です。
「私は生産的でなくていい」と言うのも自由ですが、その場合は当然、得られるものは少なくなるわけで、それに文句を言うのはお門違いです。


ただしこれにも一つ例外があり、それは他者から攻撃された場合です。
この場合反撃するのは、権利ではなくむしろ義務です。

なぜならば、他者をたやすく攻撃する者は、いずれ自分以外の他人も攻撃するようになるからです。
そういった存在を許容しないのは、平和を望む人なら当然の行動でしょう。
 
 

他責にしないこと


これも批難と似たようなものですが、他責にしないこと。

投資の世界だけではないのですが、人は背負うリスクが本人の器に比べて過大になった時、どうしても他責(正確には自責以外)にしたくなるものです。


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しかし残念ながら、世の中他責にして解決することはまずありません。それこそあり得るとすれば、裁判で勝訴するくらいです。
社会が政府がと不満を言ったところで、取るに足らない一個人のためには社会も政府も動きません。結局は自分で動くことが、自分が見る世の中を変える唯一、かつ最短距離です。


その際、自分の行動の結果を自分で引き受け、他責にしないのは当然のこと。
そうでなければ、自分の行動の結果得られた成果であっても、他者に差し出さなければいけないのが道理です。

強い言葉を使いますが、行動の結果も成果も自分のものにならないという状態。そんな状態を定義するぴったりの言葉は、「奴隷」です。


私は奴隷は嫌で、自由人でありたいので、自責を当然の事として受け止めます。
 
 

最後に・・・


 


人生をより良いものにした考え方、最後は「楽しむこと」。


世の中が、自分の今を楽しめるかどうか決めるのは、結局は自分の心次第。
だったら楽しまなければ損というものでしょう。

「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなしものは心なりけり」という名句の通りです。


ブロガー的に言えば、「良い事も悪い事も全部ネタにしてやる」の心意気でしょうか。
そう考えると、投資で成功しても失敗してもネタになるあたり、投資とブログの相性は良いのでしょう。

さすがにまだ、「損すら楽しむのが投資の醍醐味よ!」と本心からは言えませんが、強がりで良ければそのくらいは言えるくらい、色々楽しめているのは事実です。


ということで、あくまでも私の場合:人生をより良いものにした考え方の紹介でした。
未来は分かりませんが、今後ともこんな考えで、適当に適切に生きていきます。


「Hapiness is mandatory(幸福は義務です)」。
元ネタは皮肉と逆説がたっぷり詰まった言葉ですが、考え方を変えてより良く生きようと努力し、その上で足るを知るのならば、幸福になるのは難しくないでしょう。


何よりも、幸福になることは生まれた以上、努力によって達せられるべき義務だと思います。

ということで、市民、貴方は幸福ですか?(やめい)
注)「幸福は義務です」と同じ元ネタです。


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