今回は雑記で、疑問に思っていることについて書いてみました。
「一貫した意見」、「一貫した考え方や立場」というのは褒め言葉のように使われる表現ですが、本当にそうですか? という内容です。
<目次>
「社会的な存在」とは
人間は社会の中で生きている限り、社会的存在であることを捨てるわけにはいきません。
社会的存在とは何かと言うと、社会学の用語をひけば「経済的構造に組み込まれている存在の総体」という難しそうな言葉で表されますが、要は「社会と何かの関わりを持っている存在」のことです。
例えば一般的なサラリーマンを見てみますと、企業に雇われて企業活動の一端を担うという意味では労働者ですし、ある相手から見れば客先の担当者ですし、別の相手から見れば仕入先の担当者です。
同時に彼や彼女は、労働者であると同時に消費者でもあります。
個人の社会への関わりは一つの類型に限るものではなく、複数の側面で社会に関わるというのが当然です。
視座の違いは人格の違い
私に当てはめれば、家族の中における私、会社員としての私、消費者としての私は、それぞれ別の側面を持っています。
さらに私は投資家であり、ブロガー・ライターであり、「自分会社」の起業家でもあります。
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社会との関わり方が複数あれば、そこには複数の視座が生まれます。
視座の違いは意見の違いであり、態度の違いであり、人格の違いにすら影響します。
結果として私は、周囲の状況や私の立場によって、複数の意見や態度、人格を入れ替えています。逆説的な表現ですが、人が社会的存在である限り一貫した人格というものはなく、軽度の精神異常こそが正常の正体なのだと思います。
(「完璧に正常な精神」というものを想像すれば、それはどちらかと言えば異常の類です)
投資でも同じこと
視座の違いが意見の違い、ひいては人格の違いにもつながるというのは、投資でも同じことだと思います。
例え損失を出したとしても、あるいは利益が予定に届かなかったとしても、「なぜそうなったのか」を複数の立場から客観的に見ることが重要です。
その際にこの「複数の人格を使い分ける」という方法は役に立つでしょう。
自分が世界の中心でない以上、自分にとって有利な出来事はまず起きません。
そう弁えておけば、自分にとって不利な変化が起きた時に「なぜ起きたのだろう」「その背景には何があるのだろう」と考え、さらには「有利な変化になるためには、どんな立場であれば良かったのだろう」と分析を繰り返すことで、自分を有利な位置へ運んでいくことができます。
過去と他人は変えられない、変えられるのは未来と自分だけ、ということです。
思いのままにならない世の中に不平不満を吐いたところで、世の中を変えられないのなら無駄なこと。
愚痴は一言、心のデトックスに留め、「しゃあない次行こ次」の心持ちが大事です。
私の意見、と言われても。
会社の外でも内でも、時々意見を求められることがありますが、「あなたの意見は?」と言われると少し困ってしまいます。
例えば投資家としての私と、ブロガーとしての私の意見は異なるからです。
投資する時にもブロガーとしての考えは混じるし、ブログを書く時にも投資家としての考えが混じります。異なる二つの考えに折り合いをつけようとは思ってなく、適当に混ざった状態を私は良しとしています。
私は意見を求められた場合、「どんな立場とどんな視座で言えばいいですか?」と聞き返すことにしています。
立場と視座を設定されれば、その設定に応じて適切と思われる思考を巡らせて、意見を返します。しかしその意見はあくまでも仮定された立場と視座によるものなので、私自身がその行動を取るかどうかとは無関係です。
私が「思考が論理的に適切なら、行動はそれに従わなくてもいい」と主張しているのは、こういう背景があります。
それでももし、本当に私の素の意見が聞きたいのなら、ほとんどの議題に対して「そんな面倒なことは考えずぐーたらしていたい」と返すでしょう(笑)。