今回は雑記です。
理想や現実、問題の解決、そういったことについて、私の思っていることを書いていきます。
あくまでも私の考えとなりますので、人が違えばまた考えは違うでしょう。一つの意見、視座ということでどうぞ。
<目次>
ステレオタイプな意見の根っこ
最近世を騒がせたとある事件が、この記事を書こうと思ったきっかけです。
その事件の詳細は重要ではないので省略しますが、何かの対立、特に国や組織や会社などと個人の間の対立において、相対的に弱者である個人に不利な事が起きた時、良く目にする意見があります。
例えば、以下のようなものです。
「がんばったのに報われないのは問題だ」
「**は日本の悪癖」(**には例えば根回し、忖度、等が入ります)
「改善しようとしたのに、周囲に潰された」
「周りの無理解がこのような事態を引き起こした」
「なぜこのような問題を放置するのか」
こういった意見は手を変え品を変え様々ありますが、最近、その根っこは一つではないかと考えるようになりました。
「理想に立脚している」という悪習慣(もしくは、悪癖)です。
下記の例も、そんな一つです。
理想に立脚することの問題
なぜ、理想に立脚してはいけないのか。私は以下のように考えます。
立脚する、つまりよりどころにするということは、その状況(理想)が手に入るということ、現実のものとなることを前提にしています。
(嘘に立脚すれば誤った判断を下すように、理想に立脚するということは、理想を起点に物事を考えることです)
しかし当然のごとく、現実は理想通りどころか、理想からかけ離れていることが多いです。
さてこの場合、理想に立脚する人は、現実との乖離の原因や責任を、どこにかぶせるのでしょうか?
少なくとも自責では考えないでしょう。自責で考えるなら、それはすでに「理想とは異なる自分」を前提にしているわけで、理想に立脚しているとは言えません。
現実は理想とは異なり、たいていの場合において問題だらけで、平等でも公平でもなく、意地悪で救いの手も少ないものかもしれません。
しかし、それが現実です。
現実を変えたければ、ありのままの現実を清濁併せのみ(むしろ、清濁々々くらいの割合で併せのみ)、現実に立脚するところから始める必要があると考えます。
全ての問題は解決すべきものではない
先に紹介した、「がんばったのに報われないのは問題だ」、「なぜこのような問題を放置するのか」という意見について。
それが問題であることに同意したとしても、私はその問題を必ず解決すべき、という意見には同意しません。
もちろん、問題が残ったままより解決した方がいいとは思いますが、これもまた理想と現実の問題です。
あらゆる問題を解決するに十分なリソースは、社会にはありません。
なので解決には優先順位があるわけで、その優先順位を決めるのは国や組織です。個人が意見を言うのは自由ですが、その意見が通らないことを理解した上での自由です。
ですから、個人や小集団のレベルで問題だと思っていることでも、それが解決されるかどうかは分かりません。
むしろ「問題は解決されない」という前提に立って、では何をするかを主体的に考えた方が、往々にして良い結果を生むと思います。
これもまた、理想に立脚していては出てこない考えです。
そして現実を変えるには自分の行動しかないわけですから、やはり理想に立脚するのは良くないことだ、と思うわけです。
理想を抱く覚悟について
理想を抱くことそのものについては、私は否定するものではありません。
ただし、覚悟を持つことが大事だと思います。
それは、「理想には決してたどり着けない」という覚悟です。
理想はどこまでも求めるものであって、たどり着けないことを覚悟の上で、日々色々なことを改善するための指針だと思います。たどり着けるなどと考えるから、理想に立脚してしまいがちになるわけです。
例えば、時々目にする意見。
「全世界の寛容を謳う者でも、非寛容に対して寛容であってはならない」
自己矛盾ですが、これを主張する人がちらほらいるのもまた事実です。
これも、理想と現実で説明が付くように思います。
「人間は寛容を理解できる、話せば分かる」という理想に立脚するから、その命題の対偶である「寛容を理解せず、話し合っても分からないのは人間じゃない」も真になって、排斥につながります。
最初から「人の寛容は不完全」、「話し合っても分からない人はいる」という現実に立脚しておけば、こんな自己矛盾の意見に至る必要もなかったのに、と思うばかりです。
ユートピアの語源
こういった話になると思い出すのが、トマス・モアの名著「ユートピア」。
当時のイギリスの制度や社会を批判するため、ユートピアなる架空の国を持ち出した書籍ですが、このユートピアという言葉には語源があります。
「理想」郷を示すユートピアの語源は、ギリシャ語の「outopos」。
その意味は、「どこにもない場所」。
まあしょせん、理想などその程度のものだという皮肉の言葉だったのかもしれません。
ということで以上、理想や現実についてつらつらと書いてみました。
最後に一つ、少し強い表現で失礼します。
理想に立脚する人は、世の中が理想通り、思った通りになると本気で考えているのでしょうか。
世界の支配者でもない、たった一人の人間のために動くほど、世界には余裕もなければ暇でもありません。
唯一思い通りになる世界があるとすれば、それは自分の心であり、自分の行動です。
それさえ満足にマネジメントできず、不平不満を漏らし行動の言い訳をするようなら、なおのこと世の中を変えられるはずがないのも道理なわけで。
不平不満をいつも漏らしているのも、その人の自由ですのでご勝手にとしか言いようがないのですが、近寄ってほしくはないものです。