「作法」に関する雑記です。
作法というと茶道とか華道とか、そういったものを思い浮かべるかもしれませんが、ここで言う作法というのは特別なジャンルではなく、世の中の様々な場面における作法のことです。
賛否両論あるでしょうが、私の考えを書いてみます。
<目次>
上司と部下の「作法」
会社組織における、上司と部下の作法について。
会社の社風や規模、業種等によっても異なるでしょうが、だいたいどんな会社であっても上司には上司としての、部下には部下としての求められる行動があり、作法があるという点は共通していると思います。
組織のパフォーマンスを最大化する責任は、何も上司ばかりにあるわけではなく、部下もその責任の一端を担っています。
上司の役目が「方針を出し」、「必要に応じ部下をサポートし」「万が一の場合は責任を取る」ことなら、それと対となる部下の役目もあります。その部下の役目を全うしない状態で、上司が責任を全うしないなどと言うべきではありません。
社畜の考えと思いますか?
私はそうは思いません。そもそもこんなものは会社以前の問題で、我も人なり、彼も人なり、というだけのことです。
強者と弱者の「作法」
上司と部下の作法を拡大すると、それは強者と弱者の作法にも共通します。
強者が強者としての力を振るうことが責められるのであれば、弱者が弱者としての力を振るうことも同様に責められなければいけません。
最近の世の中、この辺のバランスが崩れているような気がします。強者が強権を振るうのは許されないが、弱者が強者を責めるのは許される、という風潮が広まっていないでしょうか。
特にインターネットにおいては、顔の見えない弱者(気取り?)による、顔の見える相手への雑言が飛び交うことが多いです。
匿名性が気持ちを大きくしているのでしょうが、犯罪予告をした人間が逮捕されるニュースがたびたび流れるように、インターネットの匿名性は実際のところ大したことはありません。
実際に少し調べたことがありますが、しかるべき筋から正式な(当記事的に言えば、作法にのっとった)照会を行えば、各ブログ、SNS、通信会社は基本的に開示に応じるようです。
インターネット内外を問わず、ある関係に上下(強弱)が存在するのであれば、その両者には相応しい作法が求められます。
上だけではなく下にも義務がある、日本版のノブレス・オブリージュでないでしょうか。
実例を一つ
少し前に私が経験した、実例を一つ挙げます。
私の部署にある時、入社2~3年の若手社員がいました。その社員は事務遂行能力は高レベルであり、また知識の吸収能力も私が見る限りは平均以上でした。
ただその社員は、自分の正義を曲げることに対し、強く抵抗する性格でした。
その「正義」というのはおおむね適切な方向だったと思いますが、会社の中において重要視されるのは一般論の正しさではなく、その会社のルールで補正された正しさです。
その性格が原因で手ひどく叱責を受け、「なぜ入社2~3年の自分が、ここまで言われなければならない」と不満を漏らしていましたが、結局何が間違っていたのかは理解しないままのようでした。
自分の正義を譲る譲らないは本人の勝手ですが、個人の考えで上長に突っかかっていっては、叱責を受けて当然です。組織秩序にも悪影響ですし、ケンカの作法的にもアウト。だから怒られるわけです。
ケンカにも「作法」
ここで言うケンカとは当然殴り合いのことではなく、相手の意見より自分の意見を通すための、先鋭的な交渉事を指します。
ケンカをするための作法は、例えば「ケンカを売るための筋」「一線を越えないこと」そして「落とし所を探ること」だと思います。
自分に関係のない事について、側方支援ならともかく正面切ってケンカに加わるのは筋が立ちません。
一線を越えたら名誉毀損に問われかねませんし、そもそもケンカを売るのであれば落とし所も用意する必要があります。
先の例で言えば、「自分の正義」などと筋の立たない理由で、落とし所も用意せず強者である上長に突っかかっていったわけですから、ケンカの作法を弁えないマナー違反と叱責されても仕方がありません。
下っ端だから、2~3年目の社員だからという理由で守られるのではなく、守られるには守られるなりの作法、というものがあるわけです。
会社内において相対的に弱者である社員が、強者に突っかかっておいて、反撃されたら弱者の権利を主張する、ではまったく筋が立ちません。そんな程度の覚悟なら最初からケンカ売るな、ということです。
守られるための「作法」
弱者が守られるのは、弱者だからでは不十分。それは必要条件であり、十分条件ではないと思います。
守られるには、それなりの作法があります。
例えば災害で被害にあった人が、全国からの救援物資に最初こそ感謝をしていたものの、だんだんとその状況を当たり前と思って要求をつけあがらせていけば、やがて反感を買うことになります。
これは「守られるための作法がなっていなかった」という分かりやすい例ですが、このような例はどこにでもあります。
守られることが当然と思う相手を、誰も率先して守りたいとは思わない。これに尽きます。
卑屈になれ、とか、這いつくばって感謝しろ、などと言っているわけではありません。
まずは自助でなんとかする。それでもどうしようもなければ、当然の礼儀と謙虚さを持って助けを求め、それが与えられなくとも腐らず、与えられればただ素直に感謝し、多くを望まず増長しない。
それだけの作法です。簡単なことではないでしょうか。
賛否両論の作法、私の考え
社会には様々な場所で「相応しい立ち振る舞い」が求められ、それがその場所における作法になります。
作法を守らなければ煙たがられ、あまりに酷いときには排斥されます。
こういった作法は時に根回しや忖度などの言葉と結びつくため、賛否両論あるでしょうが、私はどちらかと言えば肯定的です。
それぞれの国に個性があり、良いところがあり問題もあるように、日本にも個性があり、良いところと問題があります。世界でもトップレベルの「行間読み」、ハイコンテクストな言語があるというのは、個性の一種でしょう。
法治国家であり、かつ国家による強制力が弱いにも関わらず、相対的に良好な治安が維持できている理由は、まさにこのような作法であり、かつ世間の目があるからだと思います。
他方、ふさわしい立ち振る舞いを重視し世間の目を気にする性質は、時に島国根性と称されることもあります。
でもまあ、それも個性の一つでしょう。
両手にも満たないですが、世界のいくつかの国は見てきました。その中で私にとっては、この国が一番居心地が良く思います。